20年の大運天中殺が、ついに終わった③

こんにちは!しろたんです。

最近春めいてきて、とってもウキウキしています😊✨

基本は引きこもりのしろたんだけど、日照時間が長くなってくると、やっぱり気分が晴れてきますね。太陽にあたるって、本当に大切だなと思います。

〈ほんの小さなお知らせ〉

記事ごとに自分でつける記事アドレスというのがあります。

(パソコンからだと、miuhoshikawa.comの後に続く、記事アドレスが見れます)

これを、わかりづらいな、と思う部分を少し修正した記事があるので、ツイッターに載せたリンクから飛ばない記事があると思います💦ご了承ください。

ブログを書くのもやっとちょっとずつ慣れてきたけど、まだまだわからないことや不慣れなことがたくさんあります。

亀🐢ペースのノロさですが、これからもノロノロと改良していきます😊

14〜23歳の大運、なぜ看護師になろうと思ったのか

さぁ、大運天中殺中の、看護学生時代(19〜21歳)を書いていきます。

前の記事はこちら↓

20年の大運天中殺が、ついに終わる①

20年の大運天中殺が、ついに終わった②

その前に、なぜ私が看護師になろうと思ったのかを書きます。

私の大運表はこちら

小学生の頃から好きだったのは、マザー・テレサでした。マザー・テレサの本を何回も読み、人に尽くし、世に尽くすことに憧れていたなぁ。。

今の姿からは想像もつかないでしょうが(爆笑)😂、私は非常に社会貢献欲の高い人間だったのです。

人の役に立つことが大好きで、いつも人のために何ができるかを考えていました(ただ、これはいい子にしていないと自分の居場所がなくなるという脅迫観念も間違いなくありました)。

将来の夢も、おそらく中学生くらいから、おぼろげながら看護師や、人の役にたつ仕事がしたいと考えていました。

この辺りは、私の年柱に入っている、正官の要素がとても現れていると思います。

高校生になり 自分の進路を決める時、はっきりとした将来の夢はこの頃ありませんでしたが(自殺未遂もろもろで、それどころではなかった)、職場体験で看護師体験にいき、やはり医療や福祉関係の、人の役にたつ仕事がいいかなと思いました。

成績は自殺未遂以降、だだ下がりしていたのと笑(W天中殺っぽいよね)、奨学金も借りられない程の極貧さでしたので、自分で学費と生活費を稼ぎながら、大学ではなく専門学校に行くことにしました。

修学旅行で行った京都の美しさが忘れられず、京都の専門学校に行くことに決めました。

看護学生時代。学生生活、初めての仕事

無事引っ越しと入学を終え、初めての一人暮らしが始まりました。

私は実家と実家周辺(散々差別を受けてきたため。田舎なので偏見が凄まじかった)が大嫌いでしたので、やっと一人暮らしができることが嬉しくて嬉しくて、どうしようもありませんでした。

今考えてみても、ホームシックにかかったことは今の今まで、1秒たりともありません。

たまに、「実家に帰らないの?」とか「親孝行せんとあかんよ」とか 何も知らずに言ってくる人がいますが、本当に余計なお世話です(純粋に心配して言って下さる人と、そうでない悪意を持って言ってくる人の違いは、すぐにわかります)。

私のように、過去散々実家で嫌な思いをし、実家に帰ればまた不幸に引きずり降ろされるような苦痛を味わう人間がいるということを、少しは想像したらいいんじゃないかと、悪意を持って言ってくる人には思います。

(心配して言って下さる人、素朴な疑問として聞いてくる人が8〜9割ですが)

一人暮らしのアパートは、四畳半、風呂なし、個人トイレあり、コイン式共同シャワー、コイン式共同洗濯機ありの、確か家賃2万4千円の、ボロいアパートでした。

四畳半て。。!いつの時代だよ!って感じですね笑。

それでも私は、やっと一人だけの空間に住める幸せの方が、格段に勝っていました。

仕送りはありませんでしたので、自分で学費と生活費を稼がなければならず、すぐにアルバイトを探しました。

京都の雰囲気が大好きでしたので、祇園の高級割烹料理屋さんの、接客の仕事を選びました。

その頃の写真

初めての仕事な上に、シフトは週4、5で入っており、学校の授業も週5(朝9時〜17時まで)であり、課題も多かったので、まぁ、率直に言って本当にしんどかったです。

初めての仕事な上に後者なポンコツで、気遣いも無理をしなければできない私(人脈の星がない)は毎日毎日怒られており、よく泣きながら仕事から帰っていたのを覚えています。

学生生活の様子はこちらです

こちらは看護学校1年生の秋に行われる、戴帽式(たいぼうしき。ナースキャップをもらえる)の日の様子。

大切な戴帽式の日に、寝坊して遅刻をしてしまい、皆呆れていました。。😂ダメ人間さがじわじわと露呈してきた頃ですね(まぁ、ポンコツさは小さい頃からバレてたんだろうけど笑。後者あるあるです)

初めての風俗

看護学校1年生の夏休みの時に、1学期で既に疲労困憊していた私は(早いなw、でも本当にきつい生活だったよ)、とにかく短い時間でもっと高いお金がもらえる仕事はないかと考え始めました。

何もできることがありませんでしたので、水商売かなと思いました。

また、彼氏も欲しかった(彼氏ができたこともなかった)のもあり、少しでも男性に対しての免疫をつけたかったので、まずは風俗ではない、ホステスの面接を受けに行きました。

しかし、「もっと垢抜けた感じのコがいい」と言われ、面接に落ちてしまいました😂

だって、この顔でしたからね笑

なので、風俗しかないなと思い、連絡もなしにいきなりお店に行き、2店舗目で採用が決まりました。

本番なしのピンクサロン、いわゆるピンサロ(セクキャバともいう)でした。

フロアにソファーがいっぱい置いてあり(仕切りはなし)、クラブミュージックがガンガン流れていて、そこで女性が、フェ◯をするところでした。

男性と付き合ったことがない、処女であることも伝え(風俗なので重要)、お店のスタッフさん達が、処女を売りにしていこうとしてくれ、お客様にも伝えてくれました。

私は感性が非常に敏感、繊細なHSPですので、いわゆる波動の低い場所や人間に触れると、簡単にその波動や念をもらってしまう、といった特徴があります。

ただ、当時はそのことは何も知らず、生活と学校生活を続けなければいけませんので、必死でした。体を売るしか方法がなかったのです。

ピンサロにいたのは8ヶ月程でしたが、この短期間で、私のメンタルはさらに崩壊していきました。

体を売るということ、波動の悪い人間に触れ続けること、触れられ続けることで、明らかに躁鬱、メンヘラが激化していきました。

この8ヶ月間で、実際にフェ◯のサービスをしたのは、ただ一人のお客様だけでしたが、もう、何度も何度も口を洗いましたね。。嫌悪感と自分への憎悪でいっぱいでした。

男性、セッ☆スは大好きですが、やっぱり好きな人でないとしたくないな、と思います。

彼氏に関しては、入店してすぐに、そのピンサロの店長と付き合うことになり、初体験を済ませました。

イモだった見た目は夏休みの1ヶ月程でぐんぐん代わり、夏休み明けに学校に行った時に、誰かわからない、整形した?と言われまくる程に激変していました。整形は一切していません笑。

これから                   これですからねぇ。。

 ➡︎

社会科見学のために、あの頃ピンサロではなく 本番ありの風俗をやっておけばよかったかなぁ、と思うこともありますが、

ピンサロであれだけの躁鬱の激化ぶりなので、本番ありだとさらにヤバい状態だったかもしれませんね(苦笑)

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※ちなみに、学費についてですが、貸してあげると言う叔母がおり、お金を借りていました。

いくら必要なのか、いくらまで借りれるのか、という話は全くしておらず、私が振込のお願いの連絡をした時に、10万ずつ振り込んでもらう、という形でした。

しかしまず私は ‘人に頼る’、‘人に弱音を吐く’ ということがとにかくできない人間だったため、振り込んで欲しい、とお願いすることさえも、まず恐怖でした

【私の頑張りが足りないんだ】、【私がもっと頑張らなきゃ】という思考にしか、ならなかったですね。

だから、結局あまり叔母を頼れてなかったです。相談することも、弱音を吐くこともなし。

今考えると、どんだけ自分を虐待してるんだ、って思いますね。。

 

看護学校は3年の夏で中退しており、結局、借りた総額は90万でした(完済済み)。

計算してみると、在学中に 自分で稼いだお金は、おそらく350〜400万くらいだと思います。

笑顔を振りまきながら働いて、愚痴も文句も吐かずに 学校では勉強し、実習に行き、なんて偉かったんだろうと思います。

毎日5分でもいいから、自分をいたわり、褒めてあげればよかった。

あれだけ頑張っていたのに、私は毎日毎日、できない自分を責めるしかできなかったよ。。

 

長くなったので、次に続きます。

20年の大運天中殺が、ついに終わった④

2019-03-02

 

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