2月4日の立春を迎えて、大運天中殺も無事終わりました!✨✨バンザーイ😭🙌✨✨✨
前回の続き、14歳以降を書いていきます。
しつこいですが、暗い話が嫌いな人は、読まないでください。
私の大運表はこちら↓
0〜3歳・・・・・庚辰 偏印 墓
4〜13歳・・・・辛巳 印綬 絶 14〜23歳・・・壬午 比肩 胎 (空亡) 24〜33歳・・・癸未 劫財 養 (空亡) 34〜43歳・・・甲申 食神 長生(⇦イマココ♡) |
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14〜23歳、大運天中殺に入る。中学生時代
ここから、つっ。。ついに!大運天中殺に入ります!
中学生時代は私にとって年運(1年ごとに切り替わる運。12年で1サイクル)の‘飛躍’‘絶好調’の時期にあたるので、何かと勢いがあり、優等生街道まっしぐらでした。
ずっと成績も良く、マラソンが異様に早く(偏官×2っぽいよね)、生徒会にも入り、ボランティア活動に頻繁に励み、文、絵、スポーツで賞状をもらうことが頻繁にあり、何だか、やることなすこと勢いをつけて進んでいましたね。
仲のいい友達もいましたので、楽しく過ごす時間も多かったです。
しかし思春期特有のモヤモヤ+、自己嫌悪感は常についてまわっていました。どれだけいい結果をとっても、常に安堵することがなかったです。
これは私の自己肯定感がそもそも低いのもあったんですが、大運のテーマによる所もかなりあります。
大運表にある比肩と劫財は、努力と頑張り、意地、プライド、負けず嫌い、自我、自立心、を表します。
私の命式自体には自立心の星(比肩・劫財)は入っておらず、自立心が入っていない人というのは、自分で何でもかんでもしようとしなくていい人、という意味です。
(命式に入っている星というのは、今世で私はこれをやりたい、やる!と決めて選んできたものです)
しかし大運表に自分が持っていない星が回ってきた場合、それは人生のこの時期に、これをやってみようかな、と思って大運表にその星を入れてくる訳ですね(人生色んなことを経験した方が楽しいので)。
14歳からの10年間は大運で比肩が回ってきていた訳ですが、比肩らしく本当に我が強くなり、とにかくストイックで負けず嫌い、いつも闘争心をメラメラ燃やしていました。負けるのがとにかく嫌でたまらなくて、テストの点数に一喜一憂していました。
時間さえあれば勉強して、練習して、とにかく勝つことに必死、高みを目指していました。大運の影響力って本当に凄い。。!!
あと、私がいつも、何でもかんでも全力で(小学生の頃から)頑張っていたのは、基本的に、80%くらいは、
‘お母さんのため’
でしたね。綺麗事でもなく、冗談でもないんですが、ただ単純に、家の中がとにかく暗過ぎて、お母さんがあまりにも不幸過ぎるので、私が成績良かったり、いい子にしてたり、賞をもらってくることで、
家の中が少しでも明るくなったらいいな、お母さんが喜ぶといいな
と思っていたんです。今考えると、どんだけ健気なんだろう、と思いますね。
しつこいですが綺麗事ではなく、本当に、自分の母親がいつも暗くて不幸というのは、相当子どもにとって罪悪感をえぐられ、辛いんですよ。
あと、授業中によく、
(お母さん、今頃自殺してないかな。道歩いている時に道路にはみ出して、車に轢かれてないかな)
とかしょっちゅう心配していましたね。どんだけ暗い家なんだ。。って感じですね。
でも実際本当にそういう悲壮感・切迫感のある家で、いつお母さんが自殺していてもおかしくないような状況でした。よく、首をつったイメージが勝手に頭に浮かび、絶望していましたね。。
14〜23歳の大運、高校生時代
地元の進学校に入り、以降卒業までは文系の一番上の成績優秀クラスに在籍していました(成績順にクラスが分かれていた)。
高校生時代というのは私にとって、年運の天中殺に入ります(高2〜看護学校1年生の時)。
しかもすでに大運天中殺にも入っていますので、大運+年運のW天中殺になるのです。
入学時は割と上位の成績で入ったのですが、以降どんどん成績が下がり、それでも努力は必死にしていましたので何とか上位にはいたものの、もうズタボロでしたね。。
周りには勉強しなくても頭のいい人がうじゃうじゃいて、表向きは文武両道の優等生でしたが、いつもとてつもない劣等感と、自己嫌悪感に苛まれていました。
高1の時 授業で描いた、初めての油絵、初めての自画像がこちら。

タイトルは特につけていませんでしたが、「自画像」、「絶望」でしょうか。
今改めて絵をみると、‘ザ・傷官の絵’っていう感じですね。
ガラスのハートで繊細過ぎて、毎日毎日、いろんなことに傷つきまくっている。。
今当時のことを思い出しても、胸が痛くなってきます。
本当に自分と家と人生に絶望感しかなくて、学校の集団生活も嫌いでしょうがなかったです。
高2になり年運天中殺が始まり、その劣等感、自己嫌悪感はさらに増していきました。
天中殺の期間というのは、ただでさえエネルギーが弱っており、気分も塞ぎ込みやすく、引きこもりたくなる時期です。
絶望感が日に日に増していって、頑張っても思うような成績も上げられず、結果を出せなくなってきた自分は無価値だと、本気でそう信じていました。
生きている価値もない、魅力もない、性格も優しくない(今考えると、優しすぎる位優しかったと本気で思う)、徳高くない、性格は暗い、貧乏(別に私のせいじゃない)、卑屈、可愛くない(卒業後めちゃ垢抜けて超可愛くなる)、頭悪い。。など、
もう自分の全てがダメで、価値なんて1ミリたりともないと思っていましたね。太宰治みたいなことばっかり考えていました。
(生きていてごめんなさい)
ってね。死にたいとばかり考え、元々繊細で悩みやすい性格だったのがさらに悪化してきて、自分を罵倒する声がずっと頭に響いており、躁鬱がひどくなってきた。
躁がひどい時には歌の練習をするために(合唱部だった)道端で大まじめに大声で歌ってたら、近所の人に通報されてw、警察の人に職質されたw。あの頃は今の100倍位は頭おかしかった。
で、鬱がひどくなってきた時、もう生きていてもしょうがないし、これからの人生希望もないだろうから と思って、高2の冬に、自殺するために家出しました。
自殺の方法は色々考えたんですが、電車に飛び込んだり高い所から飛び降りるのは怖いなと思い、凍死しようと思いました(確か1〜2月の、一番寒い時期だった)。
結局凍死しきれず(まあ、そうだろうな。。今考えると。。)、いくつか隣町まできて家出しているのが何だか怖くなり、自分から連絡したら、学校の先生や警察官の人がたくさん来て、大騒動になっていました。
お母さんもこのことはだいぶ衝撃だったようで、家に割と長く(入院せずに)いたのが急に、このことを境にまた精神病が悪化し、入院して家にいなくなりました。
お母さんが入院中、親戚の家で(小学生の時のように)またご飯は食べさせてもらえるかなと思っていたのですが(家が3軒隣位にある)、それもダメだと言われました。これ以降、ご飯は私がほとんど作っていました。
また、兄には「母さんがまたおかしくなったのは、お前のせいだ」と言われ、踏んだり蹴ったりだと思いました。
大きな騒動を起こしたショックと、毎日の家事、学校の山のような勉強と課題の毎日で、もう辛過ぎて、一体どのように生きていたのかが謎過ぎます。
そもそも、こんなに辛い状態で、なぜ私は学校に通い続けたのか、辛い辛いと泣き叫び、キレ、暴れ、反抗しまくらなかったのか?
なぜそんなことになるまで先生や仲のいい友達にすら相談できず、愚痴や弱音すら吐けなかったのか?
なぜ騒動が起こった後でも相変わらず、自分を責め続けていたのか?が、謎でしょうがないです。
20代に続く躁鬱病は、この反抗期で自分の今までの我慢、うっぷんを思いっきり吐き出さなかったことからの代償だと、今ならはっきりわかります。
学校や家のガラスを割りまくる、親に暴言吐きまくるぐらいでちょうどよかったよ。
親がかわいそうだったから言えなかったけど、親よりも誰よりもまず一番大事にしなきゃいけなかったのは、自分だった。
あの頃の私に言いたい。
私は悪くない。生きている罪なんて最初から何もなかったんだよ。もうそれ以上頑張らなくていいよ。大丈夫なふりをしなくてもいいよ。愚痴や弱音は速攻吐こうね。人にちゃんと愚痴や弱音は吐こうね。。自分はいつだって人の犠牲になって、愚痴や文句を聞き続けてきたじゃない。自分もそれをやっていいの。人をもっと頼ろうね。ヒステリックに泣き叫んだらいいよ。我慢し続けるより、その方がよっぽどいいよ。
それ以上自分を責めなくていいよ。何でもかんでも自分の責任にするんじゃなくて、人や環境のせいにしたらいいからね。自分のことは棚上げして、人を責めることがあってもいいんだよ。自分の気持ちをずっと抑えてばっかりじゃ、自分がかわいそうだよ。嫌なことされたら速攻やり返そうね。もしくは第三者に伝え、相談して、私を粗末に扱ったことを後悔させようね。人よりも自分の気持ちを尊重しようね。
今まで私のことを大事にできなくて、無視してきて、本当に本当にごめんね。
誰に認められなくても、私は絶対にあなたのことを見捨てないし、何の条件もつけないあなたを、一生愛しているからね。